| 影男に会ったのは、父さんと市場で買い物をした帰りだった。 もう冬も終わり、シャツの袖をまくりあげても汗ばむほど暖かくなっていた。 だから、黒いコートをはおって立っている背の高い男がすぐに目についた。しかも、その男のコートはすそが長く、道にひきずっていた。 その男に近づいた時、ぼくはぎょっとして立ち止まった。 「ニコラ、どうした」 そう言った父さんも、男の足もとを見て立ちすくんでしまった。その男がひきずっているのはコートのすそじゃなくて、影だったからだ。普通の影じゃなかった。ぼくたちの影は黒いと言っても色が薄いけど、その男の影はほんとに真っ黒で、近づいて見ても、黒い布きれのようにしか見えなかった。 「この町にいい宿はないか」 ぎょろっと大きな目を向けて、男が父さんに聞いた。 「うちは宿屋です」 ぼくは、黙っていればいいのにと思った。そんな男なんか泊めちゃだめだと言いたかった。 「それは運が良かった。一週間ほど泊まりたいのだが」 「結構です。ついてきてください」 父さんのズボンをつまんで引っぱったが、父さんはぼくにかまわず、歩き出した。 男の目がぼくを見た。夜の海のようなこわい瞳だった。ぼくは、目をそらした。 その男はギョームと言う名前だったけど、ぼくは影男とあだ名をつけた。 その日の泊まり客は、影男だけだった。 母さんが死んでから半年たつのに、父さんはいまだにふさぎこんで、夜は酒ばかり飲んでいる。父さんがこんなありさまだから、うちの宿屋はさびれていた。 その夜、ぼくと父さんと影男の三人で食事をとった。さすがに父さんも何か話さなければと思ったようだ。 「失礼ですが、お仕事は何をされてるのですか」 「人の影を取っている」 「は?」 父さんもぼくも、けげんな顔で影男を見た。 「ご主人、あなたは何か大きな悲しみをせおっているようだね。息子さんもそうだが、あなたの悲しみの方が大きいようだ」 父さんはつらそうな顔になった。 「私が簡単にその悲しみを取ってあげることができるとしたら、どうするかね」 父さんはおどろいたように目を上げた。 「もし本当なら、お願いしますが」 「よし、取ってやろう。その代わり、泊まり賃をただにしてもらうぞ」 父さんはたぶん信じてなかったと思う。でも、ぼくは不安だった。 男は部屋のランプを消して、ローソクに火をつけた。立ったままの三人の影がゆらゆらとゆれる。影男の影は昼間見たように、ぼくと父さんの影よりもずっと黒かった。 影男は、かばんの中から銀色に光る長いナイフを取り出した。目をとじて何かつぶやいたかと思うと、かっと目をあけ、いきなりナイフを壁にうつった父さんの影に投げつけた。 「ひっ」 父さんが悲鳴をあげて、しゃがみこんだ。その直後、ぼくも悲鳴をあげた。父さんがしゃがみこんだのに、父さんの影はナイフで留められたように伸びたままだった。 父さんは立ち上がったが、気分が悪そうでふらふらしていた。 「今夜一晩は気分が悪いだろうが、明日の朝にはとってもいい気持ちになっているから心配することはない」 影男はそう言いながら、壁にささったナイフを引き抜いた。そして壁にうつったままの父さんの影を壁紙のようにはがした。 「父さんの影をどうするんだ」 ぼくはこわさをがまんして、どなった。 「私がもらう」 影男はそう言って、父さんの影を自分の影の上にのせた。影男の影があんなに黒いのは、人の影をのせているからだったんだ。 「君の影も取ってやろうか」 とんでもないと、ぼくは首を振った。 翌朝、食堂へ行くと、父さんが鼻歌を歌いながら朝食の用意をしていた。ぼくはおどろいた。母さんが生きていた頃でさえ、父さんの鼻歌は聞いたことがなかった。 「起きたか、ニコラ。今日もいい天気だぞ」 父さんは信じられないぐらいごきげんだった。 「おはよう、ご主人。元気になったようだな」 影男が二階から降りてきた。 「おかげさまで、気持ちがさっぱりしましたよ。生きていることがこんなに楽しいとは思いませんでした」 影男は、ぼくの顔を見てちょっと笑った。ぼくはぷいと横を向いたが、父さんがこんなに元気になったんだから、この人はいい人なのかもしれないと思った。 明るくなった父さんは出歩くようになり、前よりも友だちが増えた。宿屋の食堂にも人が集まるようになり、泊まる人も多くなった。それにつれ、影男の評判も高まり、影を取ってもらいに来る客も集まるようになった。おかげでうちは毎日人がごった返していた。 ある晩、影を取ってもらった人たちがうちに集まってどんちゃん騒ぎをしていた。みんな陽気だった。影男もいっしょに酒を飲んで笑っている。 「ニコラ、おまえは暗いぞ。死んだ人間のことはもう忘れろ。そして、もっと子どもらしく楽しそうな顔をしろよ」 肉屋のピエールがそう言って笑った。ピエールも、子どもが死んでからずっと暗かったのに。 父さんが明るくなったのはいいけど、こうやって毎晩のように酒飲んで騒いでいるのはいやだった。母さんのことをまったく忘れてしまったようなのもいやだった。 しばらくして、裏口の戸を誰かが軽くたたいた。父さんが行ってあけると、たまに食べ物を恵んでもらいに来るこじきだった。 それまで笑っていた父さんは、そのこじきを見ると、しかめっつらになった。 「旦那さん、また、お恵みをいただけませんか」 「おまえの暗くきたない顔を見ていると、せっかくの気分がだいなしだ。すぐにどっかへ行ってしまえ」 そう言うや、父さんはドアをバンとたたきしめた。ぼくは泣きたくなった。今までの父さんなら、親切に食べ物を与えていたのに。いったい、どうして。 その時、友だちのジャンのことを思い出した。ジャンはいつもおとなしく本を読んでいて、あまりみんなといっしょに遊んだりはしなかったけど、やさしい男の子だった。 そのジャンが、影を取ってもらった翌日からみんなと外で遊び回るようになり、ぼくはめんくらった。でも、ジャンが明るくなったのはうれしかった。 ところが、今日の昼間のことだ。近所のおばあさんが重い荷物をかかえて通りかかり、ジャンを見て声をかけた。 「ジャン、悪いけど、また荷物を運んでくれないかい」 ジャンはいつもそのおばあさんの手助けをしていた。それなのに、今日のジャンは怒った顔をしてどなった。 「何で俺がそんなことしなくちゃならないんだ。あっち行け」 ぼうぜんとするぼくに、ジャンは言った。 「年寄りはみっともなくていやだよな」 父さんもジャンも変わってしまった。影を取ってしまったからだ。 酔っぱらった連中が父さんもいっしょに外へくり出し、影男だけが食堂に残った。ぼくは影男に向かって言った。 「おまえはいったい何者なんだ。影を取ってもらった人は、みんな、変わってしまった」 「いい方に変わっただろう」 「冗談じゃない。みんな、いやなやつになってしまった」 「フッ、それは君が暗いから、明るい人間をひがんでいるだけだよ。そうだな、君もお父さんと同じように、特別にただで影をとってやろう」 影男はそう言って、かばんから銀のナイフを取り出そうとした。影男はぼくをばかにしきって目をそらしていたので、ぼ 「こら、何をする。危ないから、返せ」 影男がうろたえた。ぼくはその時、自分がどうすればいいのかわかった。ぼくは、ナイフを影男の真っ黒い影に投げつけた。 影男は床にたおれて苦しみもがいた。 ぼくは影男の影を壁からはがすと、窓の外に放り投げた。影は何百にも分かれて、夜の闇にひらひらと飛び散っていった。 「君は、自分が正しいことをしたと思っているようだが、ほんとにそうかな。みんな、また元の悲しみをせおうことになるんだぞ」 影男は、もがきながらもせせら笑った。 「君もいつか、わたしのことが必要になるだろう。その時は、遠慮せずに呼んでくれ」 そう言うや、影男のからだは床に吸い込まれていった。そして、黒い小さなしみになってしまった。 みんな、それがただのしみにしか見えないようだけど、ぼくには、影男の笑い顔が見える。 「絶対に、おまえなんか呼ぶものか」 床のしみを見るたびに、ぼくは心の中で誓うのだった。 |
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