あけぼの印刷・あけぼの出版

県民の福祉とくらし、沖縄の文化を守り、平和と社会進歩に貢献する

















     プレビューと解説(3)



 (11)激しい砲撃と火焔

 米軍が、いくら大砲をぶち込んでも、砲撃が止むと、洞窟から出て反撃する日本軍の洞窟作戦に手を焼いた米軍は、戦車に火焔放射機を乗せ、あたりを火の海にして攻めて来ました。洞窟に火焔がまともに当たると、なかは炎の渦が巻き、人間は生きたまま蒸し焼きにされました。


 (12) 米軍のモップアップ作戦

 モップアップとは、雑巾で拭い取ることです。これに作戦が付くと、敵の血を拭い取りながら攻めることを意味します。米軍は、日本軍司令部が首里を捨て、摩文仁に退却した後の作戦を、モップアップとかジャップハンティング(日本人狩り)作戦と呼び、無抵抗の一般市民まで殺傷の対象にしました。モップアップ作戦の始まりは4月の中頃で、金武村で恩納岳に立てこもる日本軍ゲリラとの通報を疑われ、徹底した家捜しと、保護下にあった住民も、怖がって逃げる者を背後から射殺しています。


 (13)墓も攻撃の的

 ガマ(洞窟)を日本兵に追い出された人たちは、先祖の眠る墓を隠れ場としました。中にズシカメある骨壺、厨子瓶を外に出し、生きている人間が代わりに墓に入りましたが、米軍は、墓まで攻撃の対象にしました。


 (14)大量の戦死者を出した学徒

 女子に軍服を着けさせたのは、伊江島と浦添の南飛行場に陣地を構えた独立歩兵第15 大隊でした。一部の野戦病院でも、炊事や看護要員になっていた女子に軍服を着けさせて戦闘に参加させています。この写真の説明には、南部となっているが、多分に浦添の小湾や宮城、南部の野戦病院などで動員された一人かも知れません。



 (15)逃げ場を失った県民の最後

 一時期、「集団自決(一家無理心中)」か?と騒がれた写真です。よく調べると、側に砲弾の爆発跡があり、避難中を砲弾の直撃を受け、死んだ家族と分かりました。死後でも写真に撮られたのは、まだ良い方で、どこで死んだか、吹き飛ばされたか分からない人が多かったのです。