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    沖縄戦と基地 プレビューと解説(1)



     (1)写真パネル「沖縄戦と基地」パネル解説

     タイトルの「沖縄戦と基地」の写真は、糸満市束辺名の荒岬海岸、県立第一高等女学校、沖縄師範女子部の生徒たちが6月18日、陸軍病院(伊原・山城など)の解散で、患者壕を抜け出し、最後にたどり着いた場所。
     岬の端から100メートル前後の場所には、アメリカの上陸用舟艇や駆逐艦などが、の本兵に対する投降(降参)を呼び掛けたり、呼びかけに応えず隠れる者には、機銃掃射をしたりしていました。


     (2)15年戦争(アジア・太平洋戦争)の展開

     太平洋戦争の開始から沖縄戦までの日・米(連合軍)両軍の攻撃と反撃を一枚の地図に書き込む。サイパンや中国奥地から太い赤線で記入した矢印は、超空の要塞と呼ばれたB29爆撃機(広島・長崎に原子爆弾を投下した飛行機)の大まかな飛行コースです。地図の南(下)のオーストラリアから島伝いに伸びている線は、マックアーサーの反撃を表し、フィルピン、ルソン島のリンガエン湾から沖縄に伸びる線は、1945年3月23日から開始されたアイスバーグ作戦で、宮古、八重山の攻撃を担当した英国艦隊の進撃コースです。日本本土太平洋岸にある軍艦の図は、沖縄戦の最中に行われた、北は北海道から南は九州沿岸までの艦砲射撃の日時。


     (3)日本軍の沖縄での飛行場建設と「従軍慰安婦」の配置所

     旧日本軍の飛行場と慰安所の場所を、女性史研究会の人たちの人たちの調査によって判明した場所を中心に住民証言などでえられたもの。上の写真は、県立第二中学(現那覇高校)軍事教練の写真です。当時、軍事教練の成績が悪いと上級学校への進学はできませんでした。各中学校に配置された配属将校は、校長より権力をふるっていたのです。



     (4)1944年10:10空襲

     1944(昭和19)年10月10日の空襲を行ったアメリカ海軍第38空母機動部隊 (航空母艦を主体とした艦隊編成)が、何処から発進したかを地図に赤い線で表し、右下に艦隊の戦力となる飛行機の数。10:10空襲と呼んでいる空襲は、アメリカ軍によるフィリッピンのレイテ島上陸作戦の後方基地壊滅作戦でした。  しかし、私たちには、沖縄戦の始まりだったのです。この艦隊の針路略図は、初めての公表。




     (5)いまも暗い海底で

     55年後の今も、暗く冷たい海底に眠っている戦時遭難船の推定沈没地点と船名。もちろん、学童疎開船の対馬丸も含まれています。左上の写真は、台湾疎開のため日本軍上陸用舟艇に乗り込む人たち、宮古平良港、現存する疎開の写真は、これ一枚だけです。服装から見て、1945年冬、最後の疎開ではなかったでしょうか。