あけぼの印刷・あけぼの出版

県民の福祉とくらし、沖縄の文化を守り、平和と社会進歩に貢献する






















     プレビューと解説(5)



 (21)破壊されつくした沖縄   

 沖縄は、戦前京都や奈良と比べられるほどに、国宝建造物の多い地方でした。それが現代戦の砲爆撃の前にもろくも灰となって消え失せました。この写真のクの字形に曲がった建物は、那覇市の天妃小学校で、右上は上山中学校です。


 (22)捕虜・難民収容所

 本島には、5ケ所の捕虜収容所(金武町屋嘉、那覇市奥武山、宜野湾市大謝名、北谷町野国、読谷村都屋)がありました。捕虜は米軍の雑役としてつかわれるため、米軍部隊近くに収容所がおかれました。捕虜のなかには、ハワイやカナダ近くのバンクーバー島に送られたのもいました。難民収容所は、軍人以外の民間人を戦争難民として保護するために設けられました。本島内に11ケ所〜12ケ所、周辺離島に1ケ所が設けられていました。特に中南部には少なく、北部に多く設置され、無人となった中南部には本土侵攻用の基地がつくられました。


 (23)戦闘しながら本土出撃基地建設

 嘉手納、伊江島、読谷補助飛行場などは、日本軍が沖縄県の総人口を上回る約80万名の徴用労働者を動員してつくり上げた飛行場です。米軍は、上陸占領と同時に建設重機械を使って数日後には、使用を開始しました。また、普天間飛行場を戦闘中に建設しました。同じように作られた飛行場は、金武町のキャンプハンセン、残波岬のボーローポイント、恩納の飛行場などがあります。その他にも小型機専用の飛行場を約20ケ所ほどつくりました。


 (24)原爆投下と沖縄の位置

 アメリカは、人類のうえに二度も原子爆弾を投下し、いまなお原爆症で苦しめています。その原爆と沖縄は、深く関わっていたのです。二発目の原爆が、長崎に落とされた時(8月9日)、原爆搭載機のB29爆撃機は、燃料がなくなり、読谷飛行場で燃料補給をしてテニアンに帰りました。



 (25)沖縄戦の終結

 沖縄戦が終わったのは何時だろう? 6月23日は、牛島第32軍司令官が死んで日本軍の組織的戦闘が終わった日で、戦争の終わった日ではありません。法的に戦争が終わったのは、南西諸島に配備された第32軍を代表する最上級者の第28師団長納見敏郎中将(宮古島守備)が、現沖縄市の森根(嘉手納米軍基地内)で、降伏調印をした日、1945年9月7日が、法的に沖縄戦が終わった日です。