あけぼの印刷・あけぼの出版

県民の福祉とくらし、沖縄の文化を守り、平和と社会進歩に貢献する



















     プレビューと解説(6)



 (26)平和への祈り

 「魂魄の塔」。当時の真和志村村長金城和信が、生き残った村民を動員して、山野に散らばる数万の死骨を集め、骨塚として築いた沖縄最初の慰霊塔です。沖縄戦で家族を失った者は、毎年ここに来て焼香をし、幼い者たちへ供物のお下がりを頂きながら沖縄戦の悲惨さを語り継ぐ場所となっています。


 (27)沖縄戦の実相を後世に正しく

 平和祈念資料館は、県民の税金を何億とかけて完成しましたが、展示されているものが平和の発信に役立つものか、私たち県民は納税者として、また、平和を愛する者としてしっかり見つめていく義務があると思います。


 (28)戦跡の保存を

 悲惨な沖縄戦を、ものをいわず伝えて来たのが、ガマをはじめとする残された戦跡です。私たちの周りにも、銃弾の跡の残った壁などが残っています。私たちは、それを調べ21世紀に残していく義務を負わされいると思います。沖縄戦当時、住民が隠れたガマや避難小屋の跡など調査し、残して行く努力をしましょう。


 (29)本格的な基地建設へ

 ) 本格的な基地建設へ
   沖縄戦終結の時、米軍は県民を中南部から北部へ追い立て、無人化された中南部に広大な基地をつくりあげました。朝鮮戦争で、なお基地の拡大強化をめざしたアメリカは、不発弾を取り除き、田畑を元の姿に変え、収穫の喜びを待つ農民の土地を、国際法に反し銃剣とブルトーザーで取り上げ、新たな基地をつくりました。



 (30)日本復帰への大きなうねり

 米軍統治下では当初、日本復帰運動はタブーでした。しかし、1960年の安保改定の闘争は、沖縄の民衆をも励まし、1964年8月15日に行われた27度線上での海上大会で、本土代表団を乗せた大型船は、私たち沖縄の復帰闘争を大きく励まし、それから毎年4月28日(沖縄屈辱の日。サンフランシスコ条約発効の日)海上大会が行われました。沖縄の北端国頭村奥の集落から、その日の晩、那覇で行われる復帰要求県民大会場への自動車パレードは、沿道の県民から熱狂的に迎えられ、10万余の人々が結集する大会場へ。本土の国民と堅く結ばれたたたかいは、不可能を可能にしたのです。