あけぼの印刷・あけぼの出版

県民の福祉とくらし、沖縄の文化を守り、平和と社会進歩に貢献する























     プレビューと解説(2)



 (6)「アイスバーグ作戦(氷山作戦)」の開始

 1945(昭和20)年3月23日、いよいよアメリカ軍による沖縄上陸アイスバーグ作戦が、始まりました。この写真は、渡嘉敷島の渡嘉志久海岸に上陸し、島の中央部に進撃を開始した第77師団のアメリカ兵たち、この夜、あの忌まわしい「集団自決」が行われました。


 (7)「軍民混在の島の戦」

 1945(昭和20)4月1日、いよいよアメリカ軍の本島上陸作戦が始まった。写真は、北谷海岸と読谷海岸へ上陸を開始するアメリカ艦艇です。 アイスバーグ作戦に投入された米艦艇総数は、1,948隻で、約3,000機の航空機が地上基地と航空母艦(81隻)に搭載されていました。


 (8)米軍の沖縄占領展開図

 作戦に参加したアメリカ軍は、陸軍4個師団以上で(102,250名)、マリン2個師団(約88,500名)の計約120,000名で、海軍の約18,000名は、航空母艦や戦艦などの水上艦艇で、空襲や艦砲射撃など陸軍の作戦を支援。その他に、補給のために航海中などを合わせると約50万名が沖縄戦に参加した、と言われています。アメリカ軍は、地図に飛行機のマークで示した飛行場を戦闘と併行してつくりました。これは、本土侵攻のオリンピック作戦(九州上陸)用の飛行場で、この他にも、小型機の専用飛行場を本島内に20ケ所つくったことが、米軍文書に記載されています。


 (9)降りそそぐ米軍の「鉄の暴風」

 見慣れた写真だと思います。しかし、実際に発射されている弾は、この写真の7〜8倍と言うのを、ご存知ですか?写真に写るのは、曳光弾と言って、通常弾6発に1発の割りで入っていて、曳光弾だけが写真に写るのです。下のデーターは、米軍は、発射弾数で日本軍は、備蓄弾数(これくらいは持っていただろう)の推計です。はっきり言って、日本軍は、鉄砲や機関銃の数さえ何丁あったか、分かりません。防衛庁の「沖縄方面陸軍作戦」にも、推計しか記述されていません。



 (10)徹底して迎撃された日本軍機

 左上の図は、読谷の残波岬を起点に配備された、米海軍のレーダー艦の位置です。このレーダー網によって、鹿児島や台湾から飛び立った日本軍機は、すぐに高度・速度を米軍にキャッチされ、日本軍機より高い所から攻撃する米軍機に撃墜されました。 あれだけ鳴り物入りで宣伝された特攻機も、実際には、小型艦艇しか沈める事ができませんでした。特攻作戦にあたって、軍令部(海軍参謀部)が海軍省へ「特攻機は、空母とか戦艦などと言う、大型艦を沈める事は出来ない」報告した通りとなりました。